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友好には友好で

命がけの武士道 「敵兵を救助せよ」
~命がけの武士道 「敵兵を救助せよ」 ~


2008年12月7日、
埼玉県川口市在薬林寺境内にある海軍中佐工藤俊作の墓前に1人の元英国海軍大尉が訪れた。

サムエル・フォール卿、89歳。
心臓病を患い、また身体が不自由なため車椅子を使用しての訪日だったが、
工藤中佐の墓前でフォール卿は立ち上がり、感謝の思いを述べた。

フォール卿はその後の記者会見でこう語った。

 「工藤中佐に再会したいと言う積年の思いを
ようやく果たすことができた。
人生最高の幸福を味わっております」







工藤氏とフォール卿、
はたまた
日本とイギリスの間に何があったのでしょうか?


二人の出会いは、大東亜戦争のジャワ海でした。


大東亜戦争の最中であった昭和17年2月、
イギリス極東艦隊は、アメリカ、オランダ、オーストラリア海軍と共に連合軍艦隊を編成、
2月27日から3月1日にかけて 、ジャワ島北方のスラバヤ沖にて
日本艦隊と英米蘭の連合艦隊が交戦した。

結果は、日本帝国海軍の勝利に終わり、連合軍艦隊は壊滅。

巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は撃沈。
乗組員400名以上が救命ボートなどによる漂流をしていた。
この中に、エンカウンターの砲術士官であったフォール卿もいた。

漂流から24時間近くが経過したが友軍の救援は無く
いよいよ生存の限界に達していた(漂流者の一部は精神に異常をきたし、軍医に自決用の劇薬を要求し、服用しようとしていた)その時だった。

この海面を単艦で哨戒行動していた日本帝国海軍駆逐艦「雷(いかずち)」
が彼らに近接し、
スクリューを全力逆回転させながら急停止したのである。

フォール卿は、当時の状況をこう回顧している。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
「雷」が眼前で停止した時、
「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。
その瞬間、
「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚され
ボートが下ろされたのだ。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\


雷にとって、戦闘海域での救助活動というのはとても危険なものだった。
敵潜水艦から魚雷攻撃を受ける危険性がある。
沈没した僚艦の乗員を救助しようとして敵の攻撃を受け、
自艦もろとも全員戦死した事例も少なくないのである。
(米国海軍の多くは、日本海軍艦艇のみならず病院船まで攻撃し、
しかも脱出し漂流する看護婦にまで機銃攻撃を加えていた。)

しかし、
「敵兵を救助せよ」

雷艦長であった工藤俊作少佐のこの命令により、
雷は「救難活動中」を示す国際信号機を掲げ英国兵の救助に当たった。




だが、長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を海面から拾い上げる救助作業は難航。

そこで、工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指示したのである。


ほぼ総員に近い兵員と、はしご、ロープ、竹竿等々。
さらには、魚雷搭載用のクレーンまで、使用可能なすべての装備を投入した救助であった。

「漂流者を全員救助せよ」
「漂流者は1人も見逃すな」

工藤艦長のさらなる命令により、雷は進行しては止り、
すべての英国兵を救助したのであった。

その数は実に「422名」
救助者の人数は「雷」の乗組員の倍に達する人数であった。

さらに、雷の兵員は
重油で汚れた英国兵士の身体をアルコールと木綿で丁重拭き取り、
貴重な水と食料を提供したのであった。

その翌日、英兵たちはボルネオ停泊の病院船へ引き渡すことになるが、
救助した英国兵の中から将校たちを甲板に招き、
工藤艦長は次の言葉を発している。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
You had fought breavely.
Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy.

 「諸官は勇敢に戦われた 。諸官は日本帝国海軍の(名誉ある)ゲストである」   


\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

艦長のこの言葉に、
英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したのであった。



昭和54年1月12日、工藤艦長は78歳の生涯を静かに閉じた。

工藤艦長は自らのことを何も語らずに亡くなったが、
生前、一度だけイギリス兵について話したことがあるという。

彼がいつも持っている黒いバッグがボロボロだったため、
姪が「なぜ新しいのに替えないの?」と聞いたところ、
「イギリス兵にもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。

工藤艦長の甥・七郎兵衛氏は
「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と涙した。

工藤艦長は己を語らず、
黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、
静かにこの世を去っていったのである。


この時救助されたフォール氏は英国に戻り、
後にフォール卿となり外交官として活躍し、
晩節に差しかかった1996年に自らの人生を一冊の著書にまとめた
「マイ・ラッキー・ライフ」を執筆した。


その1ページ目には、こう記されている。

 「私を救ってくれた日本帝国海軍の工藤俊作少佐に捧げる」 






以上 参照元
「世界に愛された日本」
http://www.bushido-seishin.com/outline/
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/33771250.html
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2088.html

動画はこちら


http://www.youtube.com/watch?v=3Jzn6sCkpKc&feature=related


以上、先人の生き様をご紹介しました。

どうか
知っている人から知らない人へ
伝え繋いでいきたい、いってほしいと日記主は思います。

先人たちの生き様を知り、
自己を省み
現状を見据え、

私は先人たちと同じ日本人として、
先人たちが繋げてくれたここ日本で生きる日本人として

 恥じない生き方

をしたいと思いました。


誇りを持つ
国を愛すとは
他国を蔑み嘲り笑い、
根拠の無いことまで他国のせいだと断定し叩いて叩いて叩きまくることではないと日記主は思います。
最近、そんな事を感じる機会が、日記主、とても増えました。

そんな思いがあり、上記お話を取り上げさせていただきました。

「先人たちの生き様に感動!!!武士道!!日本人すごい!!!」

一時そう思い感動したとて、
すぐに忘れ、それとはかけ離れた行為をするのなら、
それはとても悲しく浅はかな事だと日記主は思います。

省み、弁え、恥じない生き方を   私自身にも向けて

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